翻訳と辞書
Words near each other
・ 恭城県
・ 恭妃
・ 恭子 (小惑星)
・ 恭子内親王
・ 恭子女王
・ 恭宗
・ 恭宗 (宋)
・ 恭帝
・ 恭帝 (宋)
・ 恭帝 (後周)
恭帝 (東晋)
・ 恭帝 (西魏)
・ 恭帝トウ
・ 恭帝侑
・ 恭帝侗
・ 恭平
・ 恭恵王后
・ 恭愍王
・ 恭敬
・ 恭水県


Dictionary Lists
翻訳と辞書 辞書検索 [ 開発暫定版 ]
スポンサード リンク

恭帝 (東晋) : ウィキペディア日本語版
恭帝 (東晋)[きょうてい]

恭帝(きょうてい)は、東晋の第11代(最後)の皇帝。9代皇帝孝武帝の次男。
== 生涯 ==
知的障害とされる同母兄の安帝と異なり、英明な資質があったと評される。劉裕が安帝を殺害して簒奪しようとしているのを察知し、常に安帝の傍にいたが、義熙4年(418年)、司馬徳文が不在の際に安帝は殺害された。その後、劉裕により皇帝として擁立されたが、これはもはや禅譲の布石としての傀儡に過ぎなかった。そして結局、元熙2年(420年)に劉裕に禅譲することを余儀無くされた。こうして東晋は滅亡し、新たに劉裕(高祖武帝)による王朝が成立したのである。この時、「晋氏(東晋)はとうに滅んでいたはずだった、何を恨むことがあろう」と言ったと『晋書』にはある。
司馬徳文は宋によって零陵王に封じられた。
東晋の正統性を認めていない『魏書』によると、武帝の兵に服毒自殺を命じられたが、「仏教では、自殺者は人に転生できない」と拒んだので撲殺されたという。つまり、司馬徳文は仏教徒であった。また、同書によれば褚霊媛の兄・褚季之と弟の褚淡之は武帝に通じて、司馬徳文の子が生まれる度に殺害したという。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「恭帝 (東晋)」の詳細全文を読む



スポンサード リンク
翻訳と辞書 : 翻訳のためのインターネットリソース

Copyright(C) kotoba.ne.jp 1997-2016. All Rights Reserved.